さて今日は、東日本大震災から5年です。僕が住んでいるのは神戸。阪神淡路大震災のことも交えながら、何やかんや書きます。
今日は朝から震災に関する報道が盛んに行われていました。僕には鈴木亮くんという、大学時代の友人がいます。彼は『東日本大震災支援全国ネットワーク(JCN) http://www.jpn-civil.net 』に所属し、今も全国津々浦、震災復興を命がけで東奔西走。先月結婚したばかりの新婚さんやのに、週の殆どを福島で過ごし、週末には東京に戻ったり戻らなかったり…奥さんも『国際青年環境NGO A SEED JAPAN http://www.aseed.org 』と関わりがあるので理解はあるんでしょうが…結婚式のお料理にも、福島県産のお野菜や食材を使い、その安全性を訴えていました。僕は彼らみたいな現地の皆さんを陰日向に支えてきた人たちに、もっとスポットを当てるべきちゃうんかなって思います。
僕は東日本大震災が起こった時間、兵庫県西宮市で、建築会社の飛び込み営業をしていました。少し揺れましたが、まさかあんな未曾有の災害になるとは思いもしませんでした。帰宅して、テレビから流れる映像…ご覧になった みなさんも沢山いらっしゃると思いますが、それはにわかに信じ難いものでした…僕はその映像を観た時、阪神淡路大震災のことを思い出しました。その当時、僕は日本にすらいなかったのです…
今年の1月17日で、阪神大震災から21年が経過しました。今年も神戸市内各地で、様々な震災のイベントが催されました。ウチの事務所がある、神戸市長田区は、被害が最もひどかった場所の一つ。震災復興のシンボルとして、等身大の鉄人28号が、今日も海を向いてそびえ立っています。
震災当時、僕はまだハナッタレの大学生。日本におらず、留学中の遠いNZの地で、関西出身の友人から震災のことを聞きました。
その当時、僕も含め、神戸市民の殆どは、ごく小さな地震しか経験したことがなく、『ごっつい地震』と言われても信じられません。日本時間で午前7時頃だったか、半信半疑で実家に国際電話。数コール後、母が電話口に出ました。
この電話がつながったことも、後々奇跡的だったと思い知らされます。母から状況を聞くと、初めは地震ではなく雷が落ちたと思った、棚の中の物が飛び出してテレビが落ちてきた、とにかく家の中がグチャグチャで物が散乱している、電気とガスは通っているが水は停まっている…母の話を聞く限り、とにかく大きな地震があったことは間違いないようでした。
ただその時は、詳細な報道もなく、母も僕も、まさかそんな大震災になっているとは思いもしませんでした。僕は、母と祖母の安否確認だけして電話を切りました。ところが、その後しばらく実家への電話がつながらなくなってしまいます…当時は今のように、まだインターネットも身近ではなく、情報を入手する事もできません。やきもきしていると、追い打ちをかけるようにテレビから神戸の映像が流れてきました。慣れ親しんだ神戸の街の変わり果てた姿…今でも忘れることができません。
僕が一時帰国したのは、震災から1年後。1年経っても微弱な余震が続いていました。実家があった神戸市西区の公園や市民球場には仮設住宅が建ち並んでいました。でも中心地・三宮には震災の爪痕は所々に見受けられるものの、神戸の街は形を変えて確実に復興していました。あまりにも早い復興を目の当たりにし、人間のたくましさに驚くばかりでした。でも不謹慎な話ですが、神戸住民なら誰もが経験した負の記憶を刻めなかったこと、神戸が一番大変な時に復興の手伝いを何一つできなかった淋しさのようなものも、込み上げてきたことを憶えています。
日本に帰国するまでの間、日本にいる友人からもメールや電話を通じて震災について様々な情報が入ってきました。話は逸れますが、今では『メール』と言えば、『Eメール』ですが、当時の僕にとっての『メール』は手紙、郵送される『エアーメール』のこと。海を渡りメールが届くまでに4〜5日はかかったでしょうか。良き悪きは別にして、時代は確実に進んでいっているのなぁと、改めて思います。
友人たちからの情報の中には、震災の影の部分とも言うべき、生々しい人間の汚い部分の話もありました。ニュースでも報じられていません… ただ逆に心を打つ話も数多く聞きました。中でも、関東に住む友人が、連日の震災報道を通じて、忘れられないフレーズがあります。
今はどうでしょうか?ネットが急速に発展、スマホを急激に普及、誰もがいつでも一つにまとまることも可能な世の中になりました。でも無記名なことを悪用し、まるで公衆トイレの如く、無責任に悪意を垂れ流す輩がいる。不透明な情報が劇的に増え、それを正確に取捨選択できず、処理する心が、追いついていかない。結局、情報に左右されて、行動が起こせない…
震災から21年が経ち、震災未体験者が神戸市民の5割ほどになっていると聞きます。ウチの事務所がある長田商店街も、少し南に下るとシャッターが降りているところが数多くあります。
しかし、震災の歴史は悲しい歴史であると同時に、たくましい歴史でもあります!
今でも知人同士で震災の話が出ると、知人も私も口数が少なくなり、遠い目になります。関西地方の住民にとっての『震災』は、今までもこれからも『阪神淡路大震災』なのだと思います。そして、大震災を経験した数少ない都市だからこそ、未だ遅々として進まない東日本大震災の復興に対して、具体的な『行動』を起こしていけるのではないかと改めて感じています。
ここまで言っておきながら、僕は東日本大震災に対して、まだ何も行動を起こせていません。
でもね、今年、卒業以来20振りの亮との再会は、何か意味があるに違いないんです。みなさんも、自分のこと、家族のことで手一杯で、他人のことなんて構ってられない。でもね、本当は何かアクションしたいと思ってる。日本全体の雰囲気が暗い!元気がない!これじゃどうにもならんでしょ!だから僕は、みなさんが元気になることを、元気にしたい仲間で、やらかそうと思っています。いずれ亮ともつながって欲しい!
僕は別にプロレスファンやないけど、そう思います(笑)
最後に、東日本大震災、並びに数ある震災などでご不幸な目に会われた皆様、未だ不安な思いを持たれながら生活されているみなさま、僕如きの小さな小さな祈りですが、精一杯の想いを捧げます。
これからも
を書いていきます。チョットだけでも
になれたら嬉しいなぁ〜^_^
今日はここまで。
ほなまた次回!