前回は、僕が生まれた時のことや、僕の子育て観風なことを書きました。
みなさんの考え方、ご意見なども、また聞かせてくださいね。
僕はハッキリ言って
なんて、よくツッコまれますが…光栄です!そんな僕は、さぞや強烈な育てられ方をしたに違いないと思われるかもしれませんね…
さてさて今回は、『二代目 水素バカ』(僕ですね)が、どのように育てられたのか?
『初代』(父ですね)と『初代嫁』(母ですね)について。
父を表す言葉は…
父が10代の頃の夢は『建築家』か
モチロン本人は大真面目。その昔、司馬遼太郎さんの『竜馬がゆく』を読んだのを皮切りに、あらゆる文献を読み漁り、熱烈な坂本龍馬ファンになったそうです。そういえば、僕のプロフィール写真にも龍馬さんが映ってますね。はい、そうです、父のです。
父は末っ子でしたが、6歳の頃に父親を亡くし、色々あって
という圧倒的な責任を背負っていました。親族を養うには、夢を諦めて『医者』一択。(う〜ん、この話は長くなりそうなので、また今度…)ですから自分の息子たちには、そんな責任を背負わせたくなかったのかもしれません。小さい頃から僕ら兄弟は、
と言われたことは一度もありません。それどころか父は
と言い、いつも前向きな言葉で、僕たち兄弟を死ぬほど応援してくれました。
「賢司くんなら、できる!」
「賢司くんぐらい、賢い奴はおらん!」
「賢司くんは、ハンサムボーイやな!」
ここまでくると
ただ、その言葉を言われ続けたお蔭か、僕は
(ハッ?!父が言っていた言葉、普段、僕が息子たちに言ってることと同じや…)
ここまで聞くと、父もなかなかの『親バカ』だと思われるかもしれません。確かに『親バカ』ではあったのですが、父は小学校に上がる頃から、
などと、いきなり言い始めました。当然、僕らは
と思うわけです。(父には言い返せませんが…)
ただ、今考えると
と言いたかったのかもしれません。ただ、いつも何の前ぶれもなく言い出すのが、父・秀光。
家族はいつでも
しかも父の独特な教育方針(これも、またいつか書きます)と瞬間湯沸かし器のような気性で、10歳まで僕からまともに父に話しかけたことがない!なぜ?ただただ恐い!恐怖以外のナニモノでもない!父の存在は、まさに林家の
今だから笑って話せますが、当時は、鬼? 怪獣? 暴君? やっぱり正直…
とにかく切実でした…
母を表す言葉は…
そりゃあ、激烈親父の嫁ですからね。相当、頭がやらかくなけりゃ
何度も父と僕らの通訳…いや、架け橋になってくれました。
初回のブログ『初代 水素バカの源』
を読まれた方は、おわかりになる思いますが、父はいきなり
そんなこと言う人なんです…とにかくいつもいきなりなんです!当時、弟も僕も中学生前後で、ホンマ母もよう父についてったと思います…確かに父は言うたことは必ず結果を出してましたから、説得力と安心感はありましたけど…
『林外科』をやっていた頃の林家は、それなりに裕福でした。モチロン、その為に診療所は、
父も母もバシャウマのように働いたそうです。ただ、そんな順風満帆な状況を捨てて、先が見えない『水探求者』やなんて、ありえへん…
そんな偉大な母ですが、実は僕は高校生の時に、オーストラリアに1年間単身交換留学し、現地のみんなにまみれて寮生活を送っていたことがあります。
この時の経験は、僕の人生の一大転機にもなりましたので、また詳しく書こうと思いますが、正直、当時の僕は、死にものぐるい…いわゆる関西弁で言うところの
大げさかもしれませんが、僕が今までに勉強した英語が全く役に立たない!言葉が通じることが、どんなに仕合せなことなのかを心の底から思いました。寮生活も授業も、ついていくのがやっと…正直、全く心にゆとりがない…最初の2カ月ほどは、泣きそうでした。家に手紙を出す余裕なんて到底ありません…さすがの父も日本でソコソコ心配してたらしいですが、その時の母の一言。
まさに素直&柔軟!偉大すぎるぞ、母!というか、ありがとう!そりゃ、期待と信頼には応えたくなりますもんね!しかも当時オーストラリアでは入手困難だった、日本食、邦楽、和書などを送ってくれていました。これが、どれだけ僕の心の支えになったことか。ただ…
コレはないわぁ〜!送ってきた時はどうしょうか思いましたもん!ホンマはありがたいんですよ!でもね、でもね…
そりゃ飽きるでしょ…お陰さまで、今でもあまり食べたくないモノの一つにランクインです…
こんな両親の『みなもと』、僕はスクスクと育ち『アツックルシイ』感じに仕上がりました。でもこんな僕ですが、両親には
してるんですよね。だって、チョットやソットのことじゃ、ビビらなくなったので…
僕の昔話ばかりで恐縮です…
これからも
を書いていきます。チョットだけでも
になれたら嬉しいなぁ〜^_^
今日はここまで。
ほなまた次回!